日本第四紀学会
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だいよんき Q&A

(1)河内潟から河内湖(大阪河内平野)にかけての生い立ちや古環境を教えて下さい.
(2)以下の文献を読みたいのですが,どうしたらよいでしょうか.
        趙哲済・松田順一郎(2003)「河内平野の古地理図」

質問者 : 無職(奈良県)

 

(1)河内潟から河内湖(大阪河内平野)にかけての生い立ちや古環境を教えて下さい.

 河内潟や河内湖の名称は、大阪平野の変遷史を研究された梶山彦太郎さんと市原実さんが、1972年の論文で最初に用いられ、 1985・86年(下記文献 a.)に改訂された古地理図の時代名として使用されましたが、いつのころからか、古水域名として用いられるようになりました。 変遷史の概略は、最終氷期に干上がっていた古大阪平野が、縄文海進によって、現在の河内平野に海が拡がって「河内湾T・Uの時代」 になり、その後の海退と河川の堆積作用により「河内潟」を経て淡水の「河内湖T・Uの時代」に移り変わったというものです。しかし、 遺跡の調査などで詳しく観察する機会が増えてくると、描かれた古地理図に修正しなければならない点があることが分かってきました。

 ご質問の河内潟から河内湖にかけての時代は、縄文時代後期から弥生〜古墳時代に当たります。以下簡略に説明します。 河内潟は縄文時代中期までの河内湾の、湾口が狭まるとともに、流入河川のデルタの発達と湾底への堆積によって海域が浅くなって生じた、 縄文時代後期〜晩期前半(4000〜3000年前)の汽水湖であったと考えられます。岸沿いに干潟が広がっていました。この汽水域は、 縄文時代晩期中ごろの海水準低下によって汀線が海側に前進するとともに、淀川デルタが大阪湾への出口をほとんど閉塞したため、 海水はあ まり流入しなくなり、淡水域が拡がりはじめました(潟から湖への移行)。弥生時代前期(2800〜2400年前)には、 沿岸の干潟が干上って植生に覆われるとともに、河川の中・下流域では川底が下刻されて深くなりました。 弥生時代中期(2400〜2000年前)には,湖水準が回復し、湖やアシ原の広がる沼の淡水域(河内湖)が拡がりました。 弥生時代後期末から古墳時代 (3〜6世紀) にかけては、河川の中・上 流域では下刻と充填がさかんに繰り返されたようです。 この河川の活動にともなって、多量の土砂が運ばれ湖を埋めてゆきました。当時形成された自然堤防は現在の地表面でも見られます。 河内湖はその後も、近世の新開池、深野池という寝屋川沿いの池になるまで姿を変え縮小してゆきました。


(2)以下の文献を読みたいのですが,どうしたらよいでしょうか.
    趙哲済・松田順一郎(2003)「河内平野の古地理図」

 この古地理図は、日本第四紀学会2003年大阪大会の普及講演会資料集「大阪100万年の自然と人のくらし」に収録されたものですが、 講演会当日に配布されたものですので、世間にはほとんど流布していません。図書館にも配架されていないそうですので入手は困難です。 ただし、古地理図は図を加筆・追加して下記の b. に簡単な解説付きで収録しています。また、(1)の回答よりも詳しく知りたい場合は、 少し専門的になりますが、最新の古地理図を収録した文献 c. を読んでください。大阪平野の最終氷期以降、 最近までの様子は d.が参考になります。


[参考になる図書・文献]

  1. 梶山彦太郎・市原実(1986)『大阪平野のおいたち』青木書店。
  2. 大阪市文化財協会編(2008)『大阪遺跡−出土品・遺構は語る なにわ発掘物語』創元社。
  3. 松田順一郎(2008)「発掘現場の地球科学(4) 景観復原のために」『考古学研究』54-4, 108-111p., 考古学研究会。
  4. 趙哲済・松田順一郎・別所秀高・渡辺正巳・久保和士・松尾信裕(1999)「海から平野へ」 『大地のおいたち-神戸、大阪、奈良、和歌山の自然と人類』築地書館。

回答者 : 松田順一郎・趙哲済
2008年6月13日掲載

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